10.ハーモニクス

【ハーモニクス】

 カリシカは斧を振り上げる。
 眼前には、怯えよりもただ驚き、硬直している小鹿の姿があった。
 それはそうだろう。この世界におけるカリシカの存在は、彼にとっては救世主に等しい。
 その救世主が、何の脈絡も無く、何の予兆も無いまま、自身に無骨な刃を向けるなど、果たして小鹿は考えすらしていなかった。
 リセルシア・ブルーアシードだけは、その結果を予測し得ただろう。
 この世界に存在するありとあらゆるものは、彼女に警戒心を抱かせるには十分過ぎる代物ばかりだった。
 斧が振り下ろされる。
 小鹿は動かない。
 同時、じゅん、と不気味な音が響いた。
 小鹿から見れば、それはあまりにも不可解な光景だった。
 振り下ろされた斧が、まるで最初から存在していなかったとでもいうように、跡形もなく消滅したのだ。
 否、消滅したわけではない。カリシカは未だ右手に斧の柄を握り締めている。
 中空で静止した柄の先端は黒く焼け焦げ、そこから微かに煙が立ち上っている。
 その一瞬、そこに存在したのだ。
 木製の柄はおろか、おそらくは鉄で出来ているであろう分厚い刃も含めて、まとめて蒸発させてしまう程の高温が。
 そうして、その斧の先端は一瞬にして燃え尽きた。
「”燃やせば燃える” ……言わなかったか?」
 かろうじて動かせた首だけで、小鹿は声の主の方を見る。
 そこには、左手をこちら側に掲げながら立つ、リセルシアの姿があった。
「ああ、いや、君たちには言ってなかったっけ」

「まったく。本当に……まったく」
 一息。
「橋から叩き落された時はどうしようかと思った。私は水が嫌いなんだ」
 カリシカは無言で焼け残った斧の柄を放り捨てた。
 小鹿から視線を外し、そのままリセルシアに向き直る。
「何しろ私は熱血だからな。水を操るクールキャラとは相性が悪い」
 カリシカをじっと睨みながら、リセルシアは続ける。
「水を操る現象操作なんて最悪の部類だよ、まったく」
 リセルシアの第一の目的は小鹿の救助にある。
 自ら口にしたように、彼女は腐っても魔法技術管理局に籍をおく魔術師だ。
 魔術や魔法、それらが引き起こす様々な事故、事件から一般市民を守ることは、彼らにとって最も重要な役目である。
 そうして、その目的の大部分は既に達成された。
 カリシカの興味は完全にリセルシアに向き、小鹿に対する先程までの攻撃性は消え失せている。
 ならば後は第二の目的と第三の目的を達成するだけだ。カリシカの保護と、現実世界への帰還。共にゴールは見えている。
「ここに水は無い。抵抗せずに大人しくした方がいい」
 水を操る現象操作。リセルシアの常識で捉えれば、それは魔法か魔術、そのどちらかであり、カリシカの見せたそれは可能性としては前者である方が高い。
 大まかな分類として、魔法は七種類に区分され、それらは固有の色によって管理・識別されている。
 カリシカが行使した大津波は、お手本通りの現象操作系魔法。属性色は黄色に分類される。
 現象操作系魔法とは、その名の通り、自然界に存在する現象を操作する魔法だ。
 黄色の魔法は規模が大きい割に燃費がいい。
 反面、微細な制御は難しいし、その効果は周辺環境に大きく左右される。
 故に、水を操る魔法に対抗するための最善手は、単純に水が無い場所で戦うことだ。
「自分が自分じゃなくなる」
 小さく、カリシカが呟くのと同時、地面が爆発した。

「君は言ったじゃないか。彼を餌にはしないって」
 リセルシアは迷わなかった。
「だったら……どうしてそうなる!!」
 迷わずに、カリシカに向けて熱による攻撃を浴びせた。
 魔術”ブルーシード”は単なる炎の魔術ではない。
 厳密に言えば、それは空間を過熱する魔術だ。
 対象となる空間の広さ次第で効率は変化するが、人間一人くらいなら一瞬で灰に変えることが出来るし、斧の一本程度なら跡形も残さず燃やし尽くせる。
 カリシカと同様、それは現象操作系魔法に分類される魔術だった。
 故に特徴も共通している。つまり、微細な制御が難しい。
 魔術”ブルーシード”は、火力の制御が極めて困難な代物だ。
 そのため、リセルシアにとって、対人戦における加減とは、相手の身体のどの部位を灰に変えるか程度の差異でしかない。
 カリシカを生かして捕らえることを考慮した結果、彼女が狙った部位は足だった。
 そのカリシカの足元が。
 まるで意思を持った生物のように隆起し、リセルシアによる炎熱の攻撃を防いでいた。
 通常、魔法使いは一種類の魔法しか行使することができない。
 その理由をリセルシアは知らないが、しかしそういうものだ。水の魔法使いは水を操ることしか出来ないし、炎熱の魔法使いは炎熱しか扱えない。
 魔法使いの強さとは、自らに与えられたたった一つの魔法をどう利用するかという発想力の強さでもある。
 カリシカが土を隆起させたという現象について、リセルシアは考えることをしない。
 ただ、彼女は水と土を操る、という事実が見えた。それだけのことだ。
 鋭く息を吐き、リセルシアは彼我の距離を一気に詰め、続けざまに左手から炎弾を発射する。
 魔術”ブルーシード”は、空間を過熱することしかできない。つまり、ピンポイントで狙った座標を燃やすことしかできない。
 ファンタジーに登場するような火炎の魔法とは根本的に質が違う。
 可燃物を燃やして投擲することはできるが、何もないところに火を起こし、それを発射することは出来ない。
 しかし、炎弾という攻撃方法を実現する上で必要なものを、リセルシアは最初から有していた。
 魔術”レベッカ”の70番台。空間固定の「レベッカ70」と空間移動の「レベッカ75」、そこに魔術”ブルーシード”を組み合わせたのだ。
 即席の複合魔術によって出来上がるのが、炎弾の発射という現象である。
 その時、カリシカは初めてリセルシアによる攻撃を目視した。
 攻撃の意志と武器を持つ敵であると、認識した。
「……救いがあるの」
 僅か数メートルという距離から放たれた炎弾は、地面からせり上がるようにして現れた土の壁に阻まれて霧散する。
「何が救いだ、馬鹿馬鹿しい。君はただ拾ったおもちゃを手放したくないだけだろうが! 第一……」
 目前の壁をステップで迂回し、炎弾を投擲。
「ヘッドフォンの中に救いなんてあるもんか!」
 カリシカは即座に側面に土の壁を展開する。
 同時にリセルシアは「レベッカ76」を発動した。
 その効果は空間の置換。最初の部屋を脱出する際に使用した魔術だ。
 置き換える空間は、土の壁によって遮られた内と外。起きるのは、炎弾が土の壁をすり抜けるという現象だ。
 目の前で炎弾が消失し、すぐに土の壁が崩れ去る。
 その向こう側には、右耳を押さえてうずくまるカリシカの姿があった。
 リセルシアの言葉の通り、炎弾は狙い違わずカリシカのヘッドフォンに命中したのだ。

「歌を聴かせて……」
 煙を上げるヘッドフォンを押さえながら、カリシカは呟く。
「声を聴かせて……!」
 静かに、一切の動作もなく、しかしカリシカは目前の敵の存在を忘れるほどに狂乱していた。
「言ったじゃないか。そんなものの中に、救いなんて無い」
 リセルシアは考える。カリシカの言う”救い”とは、即ち、
「そんなに”言葉”が欲しいのか、君は」
 その言葉に反応し、カリシカはリセルシアを見上げる。
 リセルシアには確信などなかった。ただの推測、否、むしろ勘に近い。
「君、他人と出会ったのは初めてだろ。楽しいもんな、コミュニケーションってのは」
 他者の存在しない世界において、意思疎通の手段としての言語は必要ない。
 だが、おそらくこの世界に言語は”在った”と見るべきだ。
 それはこの世界に来てすぐに訪れた小屋に残されていた書物の存在からも明らかである。言葉のない世界に書物は存在し得ない。
 しかし不自然な点がある。
 この世界には、書物を生産する施設も、その資源も、何一つ存在しないのだ。
 家屋に使われている木材を除いては、植物と呼べるものは一切存在しない。
 ならば、先の書物は一体どこでどうやって生み出されたのか。
 決まっている。食物が外部から供給されていたのと同じように、書物もまた明確な目的を持って供給されたのだろう。
 だが、書物の存在によって言語が在ったことを説明するならば、その書物が外部から供給されたという推論もまた不自然だ。
 故にここがリセルシアが勘によって導き出した推論である。
 つまり、この世界の管理者は、本来言語の存在しなかったこの世界に、書物という媒体を通じて言語を伝えたのだ。
 しかし結果として言語は正しく認識されなかった。何故なら、残された書物からは一切の言語が消失している。
 まるで文字だけが抜き取られたかのように、白紙と挿絵だけが残された書物。
 橋の上で相対した時に聞き取れた音楽は、部分的に歌詞だけを削りとったようにぶつ切りにされていた。
 途切れ途切れのカリシカの言葉。かと思えば、流暢に話す時もある。
 魔法とは、意味の集合体である”マナ”を、物理的特性を有したエネルギーである”エーテル”に変換する際に発現する現象だ。
 生まれながらの魔法使いにとって、世界に存在する”マナ”は魔法を生み出すための原動力であり、消費されて然るべきものである。
 意味の集合体。それは言語に置き換えることも出来る。
 この世界の人類は、魔法を行使するのと全く同じ感覚で言語を消費した。
 かつては書物の上に存在する文字を。
 今は、他者の口から発せられる言葉を。あるいは、音楽に含まれる歌詞を。
 そうして実現したのが、他者との意思疎通。この場合は、小鹿という他人とのコミュニケーションである。
「どうして……」
 うずくまったままリセルシアを見上げ、カリシカはそれだけを口にした。
「犯人の前でべらべら自論を喋る探偵みたいな真似をさせないでくれよ。私は話すのが得意じゃないんだ」
 リセルシアは苦笑する。
 事実、うまく説明する自信などない。
 この世界に最後に残された彼女にとって、他者とのコミュニケーションは革命的だったはずだ。
 少なくとも、失いたくないと思えるほどには執着して然るべきものだ。
「けど、そうだな。改めて。一緒に来てくれないか。君の言う”救い”を、誰もが無限に持っている世界に」
 そう言って、リセルシアは手を差し伸べた。

[BGM:ヘッドフォンチルドレン/THE BACK HORN]

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