05.エメラルドマウンテン/ストーンワーズ

【エメラルドマウンテン】

 それから、僕らは半日以上淡々とガラスの草原を歩き続けた。
 この世界の夕焼けは薄暗い藍色で、その藍色が徐々に闇色に変わり始めた頃、僕らは道端に小さな小屋を見つけた。
 カリシカは一度だけ僕の方を振り返り、それから、黙ってその小屋の方へと歩いて行く。
 彼女は何を語ることもない。
 僕の質問にも、あまり答えることはなかった。
 コミュニケーションが苦手なのだろうと、その時の僕は単純にそう思っただけで、特別その問題について深く考えることをしなかった。
 だから、その時も僕は黙ってカリシカが小屋の中に入っていくのを観察し、それに倣った。
 小屋の中には、小さな本棚と椅子、大小いくつかの箱が乱雑に放置されている。
 彼女は、その中でも大きめの箱の中から折りたたまれた毛布を取り出し、その時になってようやく、僕はここで夜を明かすのだと気づいた。
 受け取った毛布は、材質のよくわからない、とにかくゴワゴワして埃臭いものだったけれど、一日中歩き通しだったせいか、僕はすんなりと眠ることが出来た。
 翌朝の朝食は、カリシカの持っていた硬い干し肉のような食べ物だった。
 彼方に見えていた丘陵地にたどり着くまでには、それからまた半日を要した。

 青緑に見えていた丘は、近づいてみれば草の一本も生えていない、地肌がむき出しになった一塊の岩のようだった。
 それはまるで、透き通るエメラルドのような、あまりに現実からかけ離れたもので、僕はその時になってようやく、この世界がどこにも存在しない幻想のようなものなのだと納得するに至った。
「しっかし昨日のガラスの草もそうだけど……。ここさ、一体どこなんだ? まるで夢かゲームにあるみたいな世界だな」
 何を言っていいかもよくわからず、僕はその丘を見上げ、半ば笑いながらそんなことを呟いた。
 だって、そうじゃないか。こんな風景が現実に存在するなんて、それこそどうかしている。
「違う。世界は、間違いなく、ある」
 昨日と同じ、錆びついた声色で、カリシカは途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「じゃあ、現実だっての? ここが?」
「君が、思うよりも、現実、は……すごい」
「すごいって言われてもなあ……。そういうの、よくわかんないけど……」
 カリシカの瞳は、何を訴えるでもなく、まっすぐに僕の目を捉えていた。
 何が現実で何が幻想かなんて、確かに僕にはわからない。
 もしも、例えば、今まで僕の見ていた世界の方が幻想で、この幻想の方が現実だったら?
 ふとそんなことを考え、”胡蝶の夢”という言葉を思い出す。
 その正確な意味はよく思い出せないけれど、それでも多分、その連想はあながち的外れでもないはずだと思った。

 エメラルドの丘は見た目よりもずっと硬く、足を踏み出すたびに靴音がよく響いた。
 緩やかな登り坂を歩きながら、カリシカはふと空を見上げ。
「ああ、小鹿」
「うん?」
「空、青く、って、どんな、感じ?」
 カリシカの問いに、僕は少しだけ面食らって、それから少しだけ笑った。
 見上げれば、そうだ。この世界の空は薄く眩しい、緑色をしている。
「そうだなあ。カリシカは、青色はわかる?」
 目線を逸らし、彼女は僅かに首を傾げる。
「そうだ。スマホに写真あるかも。ちょっと貸して」
 昨日からずっとカリシカに貸しっぱなしにしていたスマホを受け取ると、ヘッドフォンのケーブルがだらりと伸びた。
 昨日に続き、今日も彼女は音楽を聞いているようで、画面には古い曲名が表示されている。
 ネットワークの接続を切っているおかげか、バッテリーはほとんど減っていなかった。
 親指で画面をタップし、写真アプリを立ち上げる。
 保存されている写真の中から適当に空の見える風景写真を選択。
「これが空だよ。青い色」
 カリシカは、向けられた画面を見つめた。
 その表情から感情を読み取ることは、僕には少しばかり難しかった。
「高い」
「うん」
「深く、霞んでる」
「うん」
「すごい」
 いくつかの短い言葉は、まるで吐息のようだった。

 しばらくそれを眺めてから、カリシカはスマホをポケットに仕舞いこむと、両耳のヘッドホンに手を添えて、小さく笑った。
 巨大な宝石のような丘は、緑の空から鈍く降り注ぐ光を反射してぼんやりと輝いている。
 その上を踊るように歩く少女の姿は、僕にはとてもきれいに見えた。

[BGM:スピード/スネオヘアー]


【ストーンワーズ】

 小鹿とカリシカが丸一日かけて渡ったガラスの草原を、リセルシアは半日で踏破した。
 一介の高校生と現役の魔術師、それも実戦部隊出身のリセルシアでは、そもそも運動能力には天と地ほども差がある。
 無論、彼女の目的がこの世界を調べることである以上、その道程においては周辺環境の観察やチェックと言った基本的な調査活動も何度か挟んでいる。
 その時点では、彼女はこの世界に住人がいるという可能性を一切考慮していなかった。
 可能性が無いというわけではなく、可能性の有無、それ自体を考えていなかったのだ。
 そして、道端に建つ小さな小屋を発見した時、彼女は初めてそれを考えた。
「明らかに人工物……だけど、いくら何でも古すぎるだろ」
 木造の小屋は見るからに古く、今にも崩壊しそうな様相だったが、それでも明らかな人工物だ。
 ならば必然、この世界には生物が存在する、あるいは存在したということになる。
 中に人の気配が無いことを確認してから、リセルシアは慎重にその中に入った。

 内装や調度品も外見に負けず劣らず劣化が激しいが、しかし、仮にこの世界に生物が存在するのであれば、その文化を知ることは極めて重要だ。
 放置されてから久しい調度品の数々は木製の質素なものばかりだったが、少なくとも人間が使うことを前提に作られている。
 そして、リセルシアはその中でも数冊の書物が収められている小さな本棚に目をつけた。
 どの本も背表紙には印字がなく、日に焼けて茶褐色に染まっている。
 彼女はその中から一冊を適当に選び出し、慎重にページをめくった。
「……なんだこれ」
 触れる端からボロボロと崩れそうなページを苦労してめくっても、そこにあるべき文字は一つも存在しない。
 何かしらの原因でインクだけが落ちたのだろうか。
 しかし、
「挿絵だけは、残ってる」
 何を描いているのか今ひとつわからないが、十ページに一度程度の頻度で現れる幾何学模様だけははっきりと残っている。
 まるで文字だけを選んで消し去ったような不自然さだ。
 生憎、印刷という技術についての知識を彼女は持ち合わせていない。
 例えば、挿絵に使ったインクと印字に使ったインクとが別で、後者だけが劣化して消えてしまう、というような現象は起こるのだろうか。
 よくわからないが、目の前にある書物は相当な年代物だ。
 まあ無くはないのだろうと納得し、念のため挿絵の記録だけ取ってから本棚に戻す。
 次に手にとった本も全く同じような状態で、リセルシアは少しばかり苛ついた。

 手早く記録を終え、それ以外に特に目ぼしい情報もないと知ると、リセルシアはさっさと小屋を出た。
「やっぱり調査任務なんて向いてないんだ」
 本来の所属である機動室では、こんな細々とした仕事など無かった。
 先の人事異動に際して抗議をしなかったことを少しばかり後悔するが、それも手遅れだ。
 ……とは言え、リセルシアを現象調査室に放り込んだのは”世界最高の魔法使い”にして”同属殺しの純銀”と名高いウルファーマー・アズファンダリアだ。
 軽く見積もっても六百年以上変わらず理想を追い続ける、超のつく頑固者。
 理想主義の果ての果てとも言えるそんな化物相手にたかだか二十歳にも満たない魔術師が反抗したところで、意味などないかもしれないが。
「……ヤな奴思い出した」
 首を振り思考を中断。
 前を向けば、眼前にあるのはエメラルドの丘だ。
 どこを切り出しても宝石になりそうな一枚岩だが、これはガラスの草原にあったようなエーテル結晶などではない。
 単なる岩だ。それ以上でも以下でもない。
「それにしたって、悪趣味だ」
 全くもって、この世界を作り上げたデザイナーのセンスは壊滅的と言える。
 何度目かのため息を吐き、リセルシアは丘を登りはじめた。