04.ガラスグラスランド/エーテルエッジ

【ガラスグラスランド】

 ドアをくぐると、そこはだだっ広い草原だった。
 薄紫色の空は、はるか彼方の緑の丘まで広がり、鋭く光を反射する透明な草の群れが、足元から地平まで延々と続いていた。
 透明な草の群れは薄く研ぎ澄まされた刃にも似て、僅かに服の裾を揺らす微風にもそよぐことはない。
 ガラスの草原。
 僕はまた、見たこともない世界に来てしまった。

 ガラスの草原の中、延々と続く砂利道を歩きながら、僕は先導する少女に声をかける。
「そういや、君、名前はなんて言うの?」
「名前…」
「うん、名前。すっかり忘れてたけど、自己紹介もしてなかったもんな。俺は小鹿誉晴。小さい鹿で小鹿。君は?」
「かり、シカ」
 錆び付いた声だ。
 錆びついて、継ぎ接ぎだらけの、今にも崩れ去りそうな、細い声。
「カリシカ……?」
「名前。カリシカ」
 彼女がもう一度名乗った時には、その感覚は消え去っていた。
「そっか、うん。それじゃあカリシカ、よろしくな!」
 そうして、僕は彼女の名前を知った。
 カリシカ。その響きが意味するところは、僕にはわからない。
 ただ何となく、乾いた響きだと思った。

 ガラスの草原はまだまだ続くようで、その間を走る砂利道も、終わる気配を見せない。
 カリシカがそんな中を黙々と歩くものだから、僕は手持ち無沙汰に首に提げたままのヘッドフォンに手をやった。
 去年だか一昨年だか、少ない小遣いを貯めて買ったもので、耳をすっぽりと覆ってしまえる程度には大きなサイズのものだった。
 そんな僕の様子を、カリシカはぼんやりと、見るともなしに見ているようだった。
「これ? カリシカも音楽好きなの?」
 僅かばかりの居心地の悪さに思わず話しかければ。
「好き」
 一言。彼女は即答した。
「なら聞いてみる? 俺の好みの曲しか入ってないけどさ」
「曲?」
「うん。十年くらい前のロックとか……。友達がそういうの好きでさ。古いCDとか、色々くれるんだよ」
「それ、くれる?」
「いや、うーん。あげるのはちょっと……難しいけど」
「お礼、忘れて、ない」
 ”お礼は何もできないけど”
 そういえば、僕は確かにそう言った。
「む……。じゃあこうしよう。俺がここから出るまでは貸してあげる。それでいいかい?」
「うん。貸して」

 そうして、僕は彼女にヘッドフォンとスマートフォンを渡した。
 カリシカはその操作方法がよくわからなかったようで、僕は砂利道の真ん中に座り込み、その操作方法についてあれこれ彼女に教える羽目になった。
 それからしばらくの間、ガラスの草原を背にして座ったカリシカは、僕の渡した音楽をじっと聴き続けた。

 彼女は詩を手に入れた。
 だから、ここまでが僕とカリシカのはじまりの話だ。

 ひとしきり音楽を楽しんだ後、カリシカはおもむろに立ち上がり、僕の方を振り向いて言った。

「じゃあ、一緒に行こうよ」

[BGM:点と点/スピッツ]


【エーテルエッジ】

 ガラスの草原。
 一週間後に小鹿がそう評する草原を、しかしリセルシアはこう言った。
「……まるで刃だ」
 扉だらけの密室の外は、見渡す限り透明な刃の乱立する世界だった。
 あるいはそれは、透明な草原に見えなくもない。
 申し訳程度に敷設されている砂利道を無視して、彼女は器用に刃を避けながらそれらが乱立する平原に足を踏み入れた。
 時折ブーツに触れる度、その刃は乾いた音を立てて崩れ去る。
 そうして出来た破片を手に取れば、その正体は一目瞭然だ。
「エーテルの……結晶? これが、全部?」
 その刃、あるいは透明な草、それは全て、エーテルが物理的実体を伴って結晶化した物質だった。

 エーテルという物質は、通常自然界には存在しない。
 それはあくまでも”マナ”を人為的に変質させたものだ。
 姿形を持たない”意味”の集合体である”マナ”を、エーテルリアクターという器官、あるいは機構によって変質させることで発生する物質的特性を有したエネルギー。それがエーテルである。
 物理的特性を持つとはいえ、通常はエーテルもマナと同様の不可視のエネルギーであり、こうして観測されることは稀だ。
 エーテルを物質として安定させるには、いくらかの手順をもってある程度の密度に圧縮する必要がある。
 物質として安定したエーテルは単にエーテル結晶と呼ばれており、現存する全ての魔術は、その出力の差はあれど、例外なくエーテル結晶を動力として利用していた。
 リセルシアが持っている魔術にも同じようなエーテル結晶が組み込まれており、そこからエーテルを供給することで稼働している。

 ひとしきりエーテル結晶の破片を観察した後、彼女はそれを腰のポーチにしまいこんだ。
 魔術師は魔術を行使する存在であり、エーテル技術の専門家ではないのだ。
 リセルシアがその破片をいくら調べてもあまり意味はないし、それよりも、実物を持ち帰って専門家に引き渡すのが彼女の仕事である。
 しかしそれでも、魔術師の一般的な知識でわかることもある。
 この場に存在する結晶の中に魔術として実用可能な密度を持つものはないだろう。
 エーテルの物質としての安定性は密度に比例する。靴で触れただけで崩壊するような結晶では、ライター代わりに火を起こすこともできないはずだ。
 魔術の動力にするなら、この百倍千倍の量のエーテルを同じサイズにまで圧縮しなければならない。
「……実用できない結晶を敷き詰めることに意味は無い」
 自分に言い聞かせるように呟く。
 このガラスの草原に価値はない。ならば何故存在するのか。
 人造のこの世界には創造主と言うべきデザイナーが実在したはずだ。
 何らかの目的をもってこの草原をデザインしたのだとすれば、単なる馬鹿か、アーティスト気取りのロマンチストか。何にせよロクな人間ではないだろう。
「だって、無意味だ」
 同じような台詞を二度続けた後、リセルシアは別の可能性に思い至った。
 つまり、この草原が自然発生したという可能性である。
 通常の自然界にエーテルは存在しないし、仮に魔法や魔術の余剰エネルギーとして空気中にエーテルが存在していたとしても、それは残りカスのようなもので、結晶化する程の密度は持たない。
 逆に言えば、密閉した空間にエーテルを注ぎ続ければ、その内飽和して自然に結晶化することはあり得る。
 そして、この世界は文字通り”密閉された”空間である。
 故に、この空間に大量のエーテルが存在していれば、このガラスの草原が自然発生する可能性もゼロではない。
「けど、その方が可能性はあるかな」
 もしもこの空間がそういうものであれば、魔法使いにとっては楽園にも等しいだろう。
 魔法とはエーテルの指向性を定義する法則であり、エーテルを自らの望むとおりに変質させる現象である。
 魔法使いが魔法を行使する上でマナをエーテルに変換する工程が必要なのは、世界にエーテルが存在しないがためだ。
 この世界がエーテルで満たされているのであれば、理屈の上ではその工程を省略することができる。
 何しろ世界が燃料で満たされているのだから。
 エーテルリアクターを備えた大型の魔術においても同じ事が言える。
 残念なことに、リセルシアが持ち込んだ魔術はエーテルを外部から供給する仕組みを持っていないため、それを確かめる術はない。
 しかし、可能性としてはこちらの方が面白そうだと彼女は思った。

 とは言え、どちらにせよ現状が変わるわけではない。
 このガラスの草原がどういう経緯で出来上がったのかはわからないが、結果は無意味だ。
 ならばこの場所でするべきことはこれ以上何もない。
 彼女は踵を返し、草原の中をまっすぐに伸びる砂利道へ戻った。
 その先には、なだらかなカーブを描く丘が見えている。