03.カリシカ/スフィア

【カリシカ】

 その少女は何をするでもなく、ただぼんやりと僕の前に立っていた。
 いつからそこにいたのかも、どこからここにやって来たのかもわからない。
 まるで幻想のように、幻覚のように、ただ、彼女はそこにいたんだ。
 その一曲。その5分。その間に。彼女は現れ、だから、ここにいる。

 僕はヘッドホンを外した。
 もしかしたら彼女が、僕に声をかけていたのかもしれないと思ったからだ。
「………」
「………」
 少女は言葉を発しなかった。
 だから、僕が言葉を使った。

「お、おはよう? いや、こんにちはなのかな。時間わかんなくてさ」
 我ながらぎこちないと思う。
 大体、僕は初対面の他人に対してフレンドリーに接することができる程コミュニケーションが得意じゃないのだ。
「こんにちは」
 細い声だと思った。
 細く、錆び付いた声だ。
 もしかしたら、この子も僕と同じように、いや、僕以上に会話が苦手なのかもしれない。
「ああ、うん、そっか。こんにちはの時間なんだ。……朝からずっと出口探しててさ。いや、入口でもいいんだけど……っていうか、入口の方がありがたいんだけど」
「うん」
「なあ、君はここから出る方法とか知らないか?」
 彼女は僅かに首を傾げ、それから、ごくごく小さく頷いた。
「入口、は、知らない」
「じゃあ出口ならわかる?」
「ここから出る方法、ならわかる」
「マジかよ! ならさ、それ教えてよ! お礼とか…あー、何もできないけど」
 僕の返事を待つ様子もなく、彼女はくるりと踵を返した。
「ついてっていいの?」
 恐る恐る訊いてみると、
「いい」
 変わらない細い声が返ってくる。

 その少女は、ほんの少しだけ周りを見渡してから、一つのドアに向かって歩き出した。
 ついさっきまで手当たり次第にドアを開け続けていたけれど、どこをどう開けたのか、イマイチ正確には覚えていない。
 だから、そのドアが最初からそこにあったのかも、開いてみたかどうかも、僕はよく覚えていなかった。
 果たして、少女の開いたドアの先に、それから始まる、あるいは終わる、世界がひとつ、広がっている。

[BGM:無し]


【スフィア】

 その少年が外界に出たのは、リセルシア・ブルーアシードがこの空間での生活を開始してから一週間後のことだった。
 故に、その時点で彼ら二人は面識は無く、また、互いの存在すら感知してはいない。
 少なくともリセルシアに関してのみ言えば、その一週間、ただの一度も、誰一人として、他者とは接触していなかった。

 この世界に人間は存在しない。それが彼女の出した結論だった。
 この場所が人工的に作られた空間である以上、その広さは有限だ。
 故に、リセルシアはこの一週間でその全容をほぼ把握していた。
 この世界には、草原があり、山があり、谷があり、川があり、廃墟があった。
 しかし、それだけだ。
 生物は虫の一匹さえ見つけることはできない。
 かつて住人が存在したであろう集落は原形を留めている住宅の方が少ないくらいで、主を失ってから実に十年は経過しているだろうと思われた。
 つまり、この世界の内側では、少なくとも十年以上の年月が経過していることになる。
 計算上そんなことはあり得ない。
 何故なら、そもそもこの空間を作り上げた”聖域”という都市は、十年前には存在すらしていないのだ。

 人類の大規模魔法攻撃に対する防衛構想、いわゆる”ツォアル構想”に連なる計画は、第一次魔女革命をきっかけにいくつも実行に移されていたが、その最初の成果と呼ばれる”箱庭計画”が立案されたのがちょうど十年前。
 その中核を担う研究施設”神の庭”が稼働したのはその翌年である。
 その当時の魔術はせいぜい銃火器の代用品でしかなく、これ程大規模な空間を作ることなどできるはずもない。
 故にリセルシアは、現実とこの空間内とでは時間の流れ方が違うのだと予測した。
 この空間は時間の流れが早いのだ。
 仮にこの世界での十年という時間経過が、現実世界の一年と同等であれば、時間的な矛盾などあってないようなものになる。
「あんまり長く居座るのも……まずいかな」
 何度目かのため息を吐く。
 主客で時間がズレるというのも、考えてみれば気味の悪い話だ。
 調査の必要な現象はあらかた記録しており、全容も把握した。ならば次は帰る方法を考えねばならない。
 侵入の際の最大の問題、出入りする方法がわからないという点について、彼女は現時点では楽観的に考えている。
 制御機構が外部に存在しない以上、必然的にそれは内部に存在するはずだからだ。
「あるとすれば、集落か。少し歩くな」
 この空間はおおよそ完全な円形をしており、その中心は調査のスタート地点でもある、あのドアだらけの密室だ。
 この世界の方位は不安定でアテにならないため、仮に集落を北とすれば、現在地点は東の最外周に位置する。
 数日の道程を計算しながら、リセルシアはもう一度浅いため息を吐いた。

 リセルシア・ブルーアシードの認識は間違ってはいない。
 この世界の時間の概念は現実とは異なるし、制御機構は内部にある。

 そして、この世界に人間は存在しない。