東武練馬徒歩5分の人。あるいは、僕達がキスをしなかった、ただひとつの理由について

妙に懐かしい人のことを夢に見た。
当時、僕はド田舎から上京してまだ半年かそこらの新米で、彼女はそんな僕より2、3歳上だった。
あの頃、彼女は東武練馬徒歩5分のワンルームに住んでいた。

僕が彼女とどう出会ったのか、それはここでは割愛する。
それは酷く個人的な問題に起因するエピソードだし、場合によっては個人を特定されかねないからだ。
ともかく、僕と彼女は、知人以上友達未満、その程度の関係だった。
僕らの間には、これといった共通点もなく、今にして思えば、あの時分、どうして友好を深めたのかも判然としない。
ただ僕達は、諸々の事情によって知り合い、顔を合わせては言葉を交わし、稀に互いの家に行っては何をするでもなく、それだけだった。

彼女の印象を表すならば、とかく真面目の一語に尽きる。
優しく、真摯な人だった。
けれど、決して強くはなかった。
故に、彼女はとても不安定で、時折自分を責めることもあれば、世界を責めることもあった。
手のかかる人では無い。
むしろ人一倍周囲に気を配っては貧乏くじを笑って引くような性格だ。
僕はおそらく、彼女のそういった性分にひどく甘えていたのだろうと思う。
とは言え、僕は彼女を、異性として好きだったわけではない。
無論、嫌いだったわけでもないが、彼女に対する僕の好意は恋愛感情とは程遠かったと記憶している。
僕は、人としての彼女が好きだった。
あるいは、信奉、信仰と言えるかもしれない。
その好意は、元を辿れば更に古い話、彼女と出会うよりも更に過去の問題に行き着くわけだが、それはそう、この話とは何ら関係はない。
とにかく僕は、彼女のことを信頼し、信奉し、尊敬し、崇拝していたし、同時に、保護欲とでも言うべき感情も持っていた。
先にも触れたように、彼女は精神的に強い人間ではなかった。
その優しさの分だけ人より多く傷ついていたとさえ言える。
故に、どうかこの人を悲しみの牙から逃げ延びさせてあげてください、などと馬鹿げたことを思いもした。

彼女は煙草が嫌いだった。
だから、彼女の家に行く時、僕は必ず外で煙草を吸った。
それでも匂いは残るから、僕といる時、彼女は大抵お香を焚いた。
それはどうにも甘ったるい香りのもので、僕はその香りがあまり好きではなかった。
彼女はベッドで、僕は床に置かれたクッションの上で、世間話はほとんどがそういう距離感で行われた。
だから、僕が彼女に触れたことは、それこそ数える程度しかない。
話題は概ね仕事に関するもので、互いに社会経験の少ないもの同士(彼女は大卒、僕は専門卒だった)、それなりに噛み合っていたように思う。
しかし、それだけだった。
究極的には、僕らは互いに互いを必要としてはいなかったし、それは多分、今でも同じことだろう。
彼女にとっての僕は、ただ言葉を返してくれる壁程度のものだったのかもしれない。
僕の人格も、外見も、立場も、そのほとんどがどうでもよかったのだと思う。
ただ世間話に興じる相手など、その程度のものだろう。
些か不服ではあったが、それはもう、そういうものなのだ。
つまるところ、そういう役回りが不服だと思う程度には、やはり僕は彼女のことが好きだったのだ。

僕と彼女がどのようにして別れたのかはよく思い出せない。
特別なきっかけなど何もなかった。
いつの間にか自然と疎遠になり、連絡を取ることもなくなった。
彼女の名前で検索をかけ、SNSを一通り調べて回れば、今の彼女がどのような暮らしをしているのかはおおよそ把握できた。
彼女はもう東武練馬にはいない。
誰とも知らない人と一緒に生活をしているらしい。
ただただ、その生活が幸せであればいい、などと、また馬鹿げたことを思いもする。
本音はきっと真逆だろう。
幸せにするのが僕じゃなかったとしても、大事な人が幸せになればそれでいい、なんて格好良いことを言える人間には、どうやら今のところなれそうもない。 
そういう誰かを幸せにするのは僕でなくてはならないし、それでやっと、僕は幸せになれるんじゃないかと、そう思う。

僕らはキスなんてしなかった。
彼女と僕との関係は、決してそのようなものではなかったし、なり得なかった。
何より、僕の煙草臭いキスでは、彼女にとっても、あるいは僕にとっても、ひどく失礼な気がしたからだ。
そんな台詞もどこかにあった。

彼女は煙草が嫌いだった。

このエントリーをはてなブックマークに追加

  1. コメントはまだありません。

  1. トラックバックはまだありません。