表現とかアートとか、そういうものについて。

旧ブログの記事をサルベージする手抜きの2回目。

表現って一体何だ?みたいな話。

ふと、表現力とか、そういうものってなんなんだ?と思ったので、その手のことを色々つぶやきました。基本的についったーの発言のまとめというか、まとめからひねり出した今だけの思いつきなので、内容もクソもないんですが、忘れないようにウダウダと書いておく。

自己表現の場、とかなんとか、よく言うけどね。僕からしてみれば、ついったーにしろブログにしろ、ああいうものは「表現」というよりは、もっと具体的な、意見や主義主張の「表出」だと思うんですけど。
じゃあ「表現」って何よ? ってことになるんですが、それって要するに、意見や主義主張を、例えば絵や、歌や、造形や、文字や、そういうテンプレに加工する技術のことでしかなくて、それが巧いか下手かってのを「表現力」って言うんじゃないだろうかな、と。
でもそれって何か変じゃね? アートじゃなくね?とも思う。
要するに、何かを表現するためには、世の中の人々が「ああこれはこういうことね」って理解できる形に変えてあげなきゃいけないってことなんだから。なんかそれって不毛だよね。

仮に、絵や歌や造形や文字や、そういうテンプレにとらわれずに何かを表現しようとしたところで、それは多分、自分以外の誰が見ても「よくわからん謎のもの」でしかなくて、自己満足の一言で片付けられるノイズでしかないんだ。
現代アートの、あの意味不明さ加減は、きっとこういうところから出てきてるんじゃないかなあ、とか思う。

そこで、ある人は言う。

なんかすごくわかる気がする。ただ既存の流通手段のなかで表現しなくてもいいんだと最近は思うようになりました。なんというか、これまで自分が出会った社会のなかで認められるだけが表現じゃないみたいな。たぶん表現ってもっと自由なはず

僕はこう返す。

けれど、自由な表現ってのは受容されないんですよね、どうしても。それは無理なからぬことなんだけど、「アートはこういうもんだ」「表現はこういうもんだ」っていう常識から外れられないの。多分、作り手も受け手も。何だかなーと思うわけです

ある人の言う「自由な表現」というのは、多分僕の思うアートのそれにとても近いものなのだろうけれど、今のところ、アートというか、芸術というか、そういう文化ってのは、その「自由な表現」ってのを許容しきれてないんだよね。
前述したような「テンプレ」の枠に収まってないと見向きもされないというか。

別の人がこう言った。

自己満足を完全に極めて、最高のオナニーが出来たら何か変わるかもしれないね

なんとなーく、その言葉に違和感を感じて、5分ほどうんうん唸ってたんだけど。
例えば、僕が自己満足でツインテールを描きまくって、挙句の果てに人類最高のツインテール描きになったとしたら、多分それは、既に自己満足ではなくなっているんだと思う。
自己満足ってのは、自分の中で完結しないといけないわけで。
他所からの評価とか、誰かとの比較とか、そういう価値観が少しでも介入してしまうと、それはきっと自己満足ではないんだ。
きっと、世の中的にはそうなる。
なので、自己満足ってのは極めることが出来ないんだ。終わりがないから。
誰にも見られず、誰とも比べず、誰とも比べられないんだから、天井がどこにあるのかわかるはずもない。
仮に僕が世界最高のツインテール描きになったところで、比較対象もなく、誰に見られるでもなければ、僕は多分、「俺の描くツインテールはまだまだこれからだ!」みたいなことを思ってるんじゃないかな。それ以上が無かったとしても。
なので、自己満足ってのは、突き詰めれば妥協に行き着く。
少なくとも僕は、自己満足の最後に「やり遂げたぜウッヒョウ!」とは思わないと思う。

とか何とか言ってみたところで、僕はデザイナーであってアーティストではないから、別段それで食っていこうとか稼ごうとかは微塵も思っていないんだけれど。
デザイナーとアーティストの違いは色々あるけれど、僕のようなWEB屋の仕事ってのは、絵画で言えば、イーゼルを組み立ててキャンバスを用意するまでだと思ってる。
そこに絵を描くのは僕じゃない。
もしも僕が絵を描くことになったとしても、そこには「こういう絵を描いてね☆」っていう、クライアントからの注文がついてまわるわけで。
だから、デザイナーに求められるのは、クライアントの考える「理想」とやらを出来る限り忠実に再現する能力だ。
極論、デザイナーは自分の表現をしちゃいけない。ただ技術だけがあればそれでいい。
そんなもんロボットにやらせろよ、とひねくれた僕は思う。
まぁ現状はクライアントがのーたりんだらけなので、デザイナーは人間でもいいと思う。

で、アーティストの仕事はキャンバスに絵を描くことだ。
仕事というか、アーティストは自分の考える何かを自分の考える通りの形にする人々のことで、それが金になるかどうかは一切合切関係ないはず。
出来上がったものに芸術性とかいう謎の価値を見出されれば、多分バカが金を出す。
そういう意味じゃ、本来、アートは無価値だ。

しかし、僕が本当に見てみたい「アート」ってのは、目の前にあるキャンバスを放り投げて、部屋の壁に絵を描くような、そういう何かしらなんだろう。
もっともっと突き詰めてしまえば、絵という形にすらとらわれない、もっと自由な何かだ。
前述した気もするけど、現代アートは、今まさに、その「キャンバスぶん投げて壁に絵を描く」って事にどう挑戦するのかってところを模索してるんだと思う。
悪ノリが過ぎてよからぬ方向に飛んでいくことも往々にしてあるけれど。

学生の頃、大阪のサントリーミュージアムで見た淀川テクニックの作品は、わけがわからなかった。
淀川で拾ったゴミをさ、パック詰めにして壁一面に貼ってあるんだぜ。意味わかんねーっつーの。
けれど多分、彼らはそのゴミの山で、彼らの伝えたい何かを表現したんだろう。
キャンバスをぶん投げて、部屋の中に落ちてるゴミクズを作品として世に出したのだ。意味わかんねーけど。
結局、あれが本当に「アート」なのかどうか、僕には今でもわからない。
けれど、絵や、歌や、造形や、文字や、そういう既存のテンプレにとらわれない表現であることは、確かだ。たぶん。
僕ではない誰かは、そのゴミ山に「表現」ってのを見たのだろう。

同じように、他人にとっては無価値なものであっても、僕自身が「こいつはアートだ!」と思える何かしらが見つかればいいなあと思う。
絵や歌や造形や文字や、そういうテンプレの外にあって、なんかよくわからんけどカッチョイイと思えるもの。
僕にとっての本当のアートってのは、所詮そんなもんなんだろう。

人類史上初めて絵を描いたのが誰かは知らないし、それを「アートだ」と決めたのが誰かも知らないけれど、そういう、表現の土台を生み出すほどの寛容さは、多分、今の世界にはない。
芸術と、アートと、表現と、デザインと、似たようなものがゴチャ混ぜで、けれど明確に表現そのものが、アートとして、あるいは芸術として、価値のある文化だと認められてしまった今となっては。

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