やさぐれ看護婦とパン屋の僕の話

昔話をしよう。僕が高校生の頃、確かガンダムSEED DESTINYがやっていた時期だから、今から大体8年前の話だ。当時、僕はパン屋でバイトをしていた。
パン屋のバイトと言っても、別に本格的なパン作りをするわけではなく、バイトは販売やちょっとした加工を担当するだけだった。

あれは確か春先の、土曜日か日曜日のことだ。
バイト先のパン屋の近くには、そこそこ大きな病院があって、昼時になると休憩の看護婦さんがよくパンを買いに来ていた。
その日、僕は開店から昼までのシフトでバイトに入っていた。
朝の5時から働き詰めだったこともあり、昼前にはえらくお腹が空いていたのを覚えている。
正午を少し過ぎた頃、ナース服にカーディガンを羽織った看護婦さんがやって来た。
近所の病院に務めている人なのだろう、ということは一目見ただけでわかった。
彼女はそう広くもない店内をぐるりと一周した後、僕に向かって「おにーちゃんのオススメって何?」と質問を投げかけてきた。
普段この手の質問は滅多になく、黙々と仕事をしていた僕は戸惑いはしたものの、その時期限定で売り出していた「よもぎのあんパン」か何かをおすすめしたはずだ。
看護婦さんはひとしきり説明を聞いた後で「わたし甘いの苦手なんだよね」などとわけのわからないことを言い出し、結局、ソーセージのデニッシュだったか、マヨコーンなんたらだったか、その辺の惣菜パンを買っていった。

その日の僕の仕事はその看護婦さんの接客で終わった。
次のシフトの女子大生と軽く挨拶を交わし、午前中の売れ残りと焼きあがったばかりのパンを昼食として何個か頂いてから退勤した。
当時、僕はバイト先まで片道5kmほどの距離を自転車で通っていた。
駐輪場は店から少し歩いた先の駐車場の隅にあった。
いつも通り駐輪場へと向かっている途中、駐車場の縁石に座ってパンを食べる看護婦さんの姿が目に入った。今で言うところのぼっち飯だ。当時はそんな言葉もなかったし、春先の陽気は随分と心地よかったから、外で昼食をしたくなる気持ちもよくわかった。
看護婦さんは僕の姿を目に止めると、「おにーちゃんは今上がり?おつかれー」とか何とか、軽く声をかけてきたので、僕もまぁ一応の礼儀として「はい、ありがとうございます」みたいな、無難な挨拶を返した。
それからしばらく、僕と彼女は世間話をした。どのパンが美味いだとか、仕事のことだとか、色々だ。
彼女は何度か「おにーちゃんいい匂いするねえ」と笑った。
僕はその度に「食えませんよ」と返した。
バイト後はしばらく、身体からパンの匂いが抜けないのだった。

その後、おねーさんは土日にちょくちょくパンを買いに来るようになった。
もしかしたら平日も来ていたのかもしれない。(後に平日もよく来ていることは判明する)僕は学校もあって、午前中のシフトは土日しか入れなかったが、それでも週に1,2回は顔を合わせた。
その度に僕らは駐車場で出くわし、縁石の上に座り、パンを食べながら、だらだらと世間話をした。
おねーさんはよく仕事の愚痴をこぼした。
どこそこの患者が怖いだの、だれだれとかいう同僚が鬱陶しいだの、病院の中には、高校生の僕にはよくわからない世界があるらしかった。
「ままならねえなあ」と、おねーさんは何度もつぶやいた。それはどうやら口癖であるらしかった。
「そっすね」と僕は答えた。おねーさんのままならねえ人生について、ガキンチョの僕が果たして何を言えただろうか。

ある時、まかないのパンをおねーさんにあげた。
それから、おねーさんは僕のまかないをアテにするようになった。
店の売上は一品減ったが、僕とおねーさんの関係は特別変わらなかった。
僕の手元には、甘すぎる桃のデニッシュばかりが残った。
それは僕の好物の一つだったので、特に文句は言わなかった。
当時の僕は、まだ甘いものが好きだった。

夏になった。
学校が夏休みに入り、僕は平日も隔日で朝のシフトに入ることになった。
僕は大学受験なんてするつもりはなかったので、勉強もせず塾にもいかず、ただ適当にバイトをして過ごしていた。
おねーさんは平日も現れた。いつの間にかカーディガンはなくなっていた。
その頃になると、おねーさんは駐車場の縁石の上ではなく、その少し奥にある川沿いの木陰で昼食を取っていた。
そして、相変わらず僕らは何でもない世間話をした。
「ままならねえなあ」と、おねーさんは何度もつぶやいた。

昼食後、おねーさんは煙草を吸った。
バージニア・スリムの3mg。僕が初めて吸った煙草だった。
煙草の吸殻を川にポイ捨てした後で、おねーさんは言った。

「仕事やめよっかな」
「なんでっすか?」
「なんか、しんどいし」
「夏バテじゃないんすか」
「そーかも」
「アイス奢りますよ」
「社会人ナメんなよアホ」
「じゃあ奢ってくださいよ」
「やだ」
「暑いっすね…」
「そうだねー」

おねーさんは2本目の煙草を吸った。
僕は灰皿代わりに飲みかけのコーラの缶を差し出した。

8月の、確か1週目のどこかだったと思う。
いつものようにやって来たおねーさんは、桃のデニッシュを買った。
「甘いの嫌いじゃないんですか?」
「食べても死なないっしょ、別に」
確かに。

案の定、おねーさんは桃のデニッシュを半分以上残し、食べかけのそれを僕はありがたく頂いた。
おねーさんは「こんな甘いもん食ったら死ぬわ」と怒った。
んなわけねーだろ、と僕は思い、思っただけで、愛想笑いでその場は収まった。
「ままならねえなあ」と、彼女は言った。

おねーさんの真っ黒の髪は、春先よりも随分と長くなっていた。
彼女の名前を、僕はまだ知らなかった。

そうして、おねーさんことやさぐれ看護婦は、僕の前からいなくなった。
病院を辞めてしまったんだろう。きっと、本当にままならなかったのだ。
彼女のままならなさは、当時の僕には何一つわからなかった。

なんやかんやあって、いつの間にか僕も当時の彼女と同じくらいの歳になった。
ままならねえ状況は何度もあったけれど、ままならねえなりにそこそこ順風満帆で幸せな生活を送っている。

あの時のやさぐれ看護婦のままならなさを、僕は未だにわからずにいる。

    • ななし
    • 2012年 1月16日

    どことなく、村上春樹っぽさを感じる文体でした。
    好きです。
    かっこう。

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