「わかる人だけわかってくれればいい」って潔さそうでダサいみたいな話

昔の絵をPixivに上げました。

ディアノイア by halcana on pixiv

以下、僕はいつもこんなこと思ってますよみたいな話。
ついったーでブツクサ言ってたのをまとめた。

例えば萌え絵とか美少女みたいな、ジャンル自体にファンがついてるような作品とか、作り手が評価されてるとか、そういう補正を取っ払ってしまうと、大抵の一次創作っては独り善がりなものだし、他人には理解されないし、それ以前に「理解したい」って思いを持って接してくれるような人すらそうそういないんですよね。
だから、実際はどうであれ「わかるわかる!」って接してくれる人は神のごとく見えます。
んで、そういうことが続くと(僕はまずそれが続いたこともないですけど)「わかってくれる人」と「わかってくれない人」みたいな形で世界が二分されちゃって、最終的には「わかる人だけわかってくれればいい」ってところに着地する人が結構いるような気がします。気がするだけです。
もっと酷いのは「この作品の真意が理解できない奴はダメだ」みたいな開き直りをやらかすような人種。当人だけは幸せそうですけどね、こういうこと素で思える人って。

で。

正直な話、僕の作品にも表現したいコアみたいな何かはあって、その真意と合致する解釈もそうじゃない解釈も、多分受け手の数だけあるんですけど、そんなことはどうでもよくて、そこに正解とか間違いなんて無くていいと思うんですよ。
そんなもん、受け手一人の感想の前には無価値でしょう。
作品を手にとってくれた誰かしらが、何かしら想像したり、考えたり、漠然と何かを思ったりしてくれれば、それが全部でいいと僕は思います。
例えば受け手が「よくわからん」としか思わなかったとしても、それはもう「よくわからん」でいいんですよね。
もしその「よくわからない感じ」が言葉になるなら、僕はそれを聞きたいと思いますけど、それが作り手である僕が込めた意味や思いとは違っていたとしても、それはどうでもいんです、ホント。
僕にしてみれば、その「よくわからん」という感想を引き出すことができたっていう事実の方が大事。
上手く言葉にはできないですけど、なんかこう、ゲージュツとかアートってそういうものじゃないんですかね。
意味とか解釈を並べて採点するようなものじゃないでしょう。
だもんで、「わかる人だけわかってくれればいい」みたいなスタンスって、潔いように見えるけどだっせーよなーってずっと思ってます。

ぶっちゃけさー、わかるわけねーじゃん。作品通して作者の人格とか思いとかそこに込めた意味とか、わっかんねーよそんなもん。エスパーじゃあるまいし。わかってもらえるわけもねーよ。俺サトラレとかじゃねーし。大体お前、最強のコミュニケーションツールであるはずの言葉ですら勘違いとかすれ違いとか誤解とか生じるシロモノなんだから、そいつをメタメタに加工したような絵とか詩とか音楽とか、そういう手法で伝わるものなんて九割九分ズレてんじゃねーの? 作品に対する理解不理解みたいな価値観それ自体が勘違いなんじゃねーですか?

と僕は常々思うわけです。げふん。
いや、別にいいけどね。何かを伝えるために創作をしてる人も当然たくさんいるわけで、それ自体は素晴らしいことだと僕は思います。効果的かどうかはわからないけれど。
ただ僕は、もっと浅いところ――言わば理解とか解釈に至る過程というか、その根幹の部分だけでも十分に素晴らしいと思っているって話です。
すごくざっくり言ってしまえば、何かしらの作品を見て、何かを思う、感じる、っていう、その部分です。
その思いとか感覚が一体何なのかは、それはもう受け手だけのものであっていいというか、なんかこう、そういう感じ。
心から発せられるもの。思い、情動、感覚。ディアノイア。

あのー、なんか、ないですか。
絵画とか見た時に、なんだかよくわからないけれど、とにかく衝撃を受けた体験とか。
僕は学生の頃、全然よくわからないギャラリーにある全然よくわからない現代アートの展示を見て、なんだかよくわからないけど感動したことがあります。

それはともかく声優の阿澄佳奈さんの結婚報告によって何故か松来未祐TLになってる今のついったーが面白すぎるのでこれ以上書く気なくした。
おわり。

このエントリーをはてなブックマークに追加

  1. コメントはまだありません。

  1. トラックバックはまだありません。