眼鏡をなくした僕は現実を直視しよう

人生は発見の連続だ。

週末に眼鏡を紛失した。
去年だったか一昨年だったか、とにかく一年以上前、生まれて初めて購入した眼鏡だ。
僕は決して目が悪いわけではなかった。
一日中モニターと睨めっこしている同業の人々に比べれば、むしろ良いくらいだ。
眼鏡を買おうと思った最大の理由は、殺人的な目つきの悪さをいくらか誤魔化したかったからである。
ここ数年、免許証の写真を指して「軽く仕事してきた後の殺し屋みたいな顔でしょう」と言う自虐ネタで笑いを取ることに躊躇することもなくなった。

それはそれとして、眼鏡を紛失した。
心当たりはある。金曜日の夜、仕事帰りにふらりと立ち寄ったゲーセンで眼鏡を外した記憶があった。
恐らくその前後で落とすなり置き忘れるなりしたのだろう。
そうした可能性に行きあたり、自分の不注意であれば仕方あるまいとあっさり諦め、新しい眼鏡の購入を決意したのだけれど、そういえば随分前にも似たようなことがあった。
それは僕がまだ十代のクソガキだった頃の話であり、出来ることならあまり思い出したくはない話でもあるのだけれど、思い出してしまったのならばそれもまた仕方あるまい。

当時、僕には付き合って二年になる恋人がいた。
彼女は(少なくとも僕よりは)ゲーマーであり、ゲーセン通いが趣味だった。
一方の僕はアーケードゲームというものは苦手で(自分の下手くそなプレイングが衆目に晒されるなんて虫酸が走るような環境だ)、彼女がゲーセンに行く日は大抵別行動になるのが暗黙の了解だった。
それ以前に、住んでいる場所も通っている学校も違う僕らが共有する時間は決して多くはなかった。

そういうわけで彼女はゲーセンに行き、僕は一人で帰宅したある日の夜、彼女から電話がかかってきた。
電話越しの彼女は泣いていて、僕にはその理由が全くわからず、ただ狼狽した。
聞けば、僕がクリスマスのプレゼントに贈った指輪をなくしてしまったのだと言う。
ゲームをする際に邪魔になるからと指から外して筐体の上に置き、そのまま帰ってきてしまったらしい。
店舗に電話をしてもそれらしき忘れ物はなかったとのことだった。
彼女はそれをしきりに謝り、泣いていた。

その指輪は当時の僕からすればそれなりに高価な代物だった。
それを買った時のことは今でもよく覚えている。
当時の所持金をかき集めて少しばかり金額が足りず、クリスマス直前の祝日に臨時のバイトを入れてどうにか購入したものだった。

その時、僕は「新しいものを買えばいい」という言葉を飲み込んだ。
それは大切なものをなくして泣いている彼女に対する冒涜だと思った。
最初にその解決策を否定した僕は、ならば彼女に何を言うべきかと考え、最終的に「気にしなくてもいい」というような慰めの言葉をかけた
指輪を紛失したことを責めるつもりは毛頭ない以上、選択肢は他に無いように思えた。
本音を言えば、彼女がたかだかゲームのために指輪をなくしたことについて僕は少なからず落胆していたけれど、だからといってそれを伝えることに意味は無い。

それから一ヶ月と経たずに僕らは別れた。
彼女は指輪をなくしたことをずっと気に病んでいて、そんな彼女を前にどうすればいいのか、当時の僕にはわからなかった。
今にしてみれば、僕の慰めの言葉もまた彼女に対する冒涜だったのだろうし、明確な解決策を捨てるべきではなかったのかもしれない。
彼女が泣くほど大切にしていたそれについて、果たして僕はどうすればよかったのだろうかと、そんなことを考えた時、気にしていないと言うことも、彼女を責めることも、新しいものを買いに行くことも、思うにどれも不完全な回答のようで、あるいは完璧な正解がどこかにあるのかもしれないが、そんなものは今の僕にもわかりはしない。

幸か不幸か、僕はそうした事件と別れがあったことを今の今まで忘れていて、忘れることができていて、故にふと思い出した一連のエピソードにはどこか他人事のような距離感すら覚えるものの、全体的には懐かしさよりも黒歴史的な恥ずかしさの方が目立つ。
それにしても、たかだかゲームのためにアクセサリーを外すことも、それをそのまま忘れてきてしまうことも、当時の僕には理解の及ばない話だったのだけれど、なるほど同じ轍を踏んでみるとままあることだと思えるのだから、全く不思議なものである。

本当に、人生は発見の連続だ。

  1. コメントはまだありません。

  1. トラックバックはまだありません。